昭和五十七年八月二十七日朝の御理解


 御理解第五十節
とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれ      ば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。


ひとりでに物が出来るようなもの、これは御神徳を受けるという事だと思いますね。だ から地を肥やす、いわゆる心を肥やすという事は、御神徳を受ける為の手立てだという事が言えますね。
どうでも自分の信心という物がひとりでに物が出来るようなという、いわゆるおかげを 目指さなければならん、為には地を肥やさなければならん。地を肥やすという事は御神徳を頂く手立てである。ひとりでに物が出来るという事は、人間の幸福の条件が足ろうてくるという事でもありましょう。
昨日、福岡の稲員さんの所へ日参しておる或る御信者が参拝してまいります。息子さん が年上の女の人と結婚する。もう両親は、も、周囲の者がみんな反対だけれども、も自分達だけで結婚式場まで決めてきとる、とこういうわけなんです。それで稲員さん所へお願いに参りましたら、「今日は忙がしかけんで、あんたがお夢ば頂く事お願いしとく」ち言わしゃった。したら、あくる朝確かに御神夢だろうと思うようなお夢を頂きましたち言うのです。と言うのは『沢山のナスビを頂いた』とこう言う。そして、また翌日お参りさせて頂いたら、あなたの事をお願いしょったら『石橋』という事を頂いた。どういう事でしょうかと言うのである。
 ま、合楽で少し信心の稽古をした人ならすぐわかる程しご理解だと、まあ両親が子供の結婚の事で猛反対して心配して、けれども本人達はね、で、私は申しました。「息子に嫁御もらわんならんと思いよるけれども、なかなかよかつが都合ようなかと言うて、ま、婚期を遅らせて悩んでる親もあるとに、あんたんとこはもちゃんと自分で見付けて来て、結婚式場まで自分で決めてくるち、もうこげな有難い事はないじゃないですか」ち私は申しましたら、「そうでしょうか」ち言うからね。
なら、それもね、あなたが、ならお知らせ頂いておるというそのナスビのお知らせとい う事は、もう合楽では安心。『腹立ちをすべて許して茄子の花』というような御理解を頂いた事があるがね、腹立ちまあ心配とかはまあいうなら腹立ちもまじっとるでしょうね。「親の反対する結婚する」と「押し切って結婚式場まで決めてきとる」とこういうのですね。だから「それをすべて許してというよりか、もう本当にまあおかげを頂いてと御礼申し上げる。しかも、石橋を渡るという事は、も、ま、合楽のお取次を頂くという事であろうね」と言うて申しました。
も、それけどもその御取次を頂いてからこれで安心しましたとこういう訳なんですけれ どもね。そういう時、信心させて頂いてる者がもうそれこそ、も反対とかじゃなくてね、も、本当にまあこれはおかげ頂いておる事ですから、いうならひとりでに物が出来よるようなものですよね。
親は子供の結婚にあれこれと心配せなんじゃなく、自分がちゃんときめて結婚式場まで 決めてきとると言う、こげん手の入らん事はなか。そりゃ良かったのち言うちからもね、喜んでいうならば周囲の人が何と言うてもね、それを喜びで受けていくというような、私はそういうような事が私共の日常の中にもいろいろありはせんだろうかと、こう、御礼を申し上げねばならない事に不平不足をいうたり、悩んだり心配したりしておるような事はないだろうか。
神様に、日々親が子供の事を願わんはずがない。だから、子供が親の言う事をきかんと いう人間の小さい心で、右が良いぞ左が良いぞと言うておるような事ではいつまでたっても心は豊かにならんね。そのことを本当におかげとして受ける、それが、例えばきつい事であってもそれをおかげとして受けていくところに、私は心の根肥やしともなれば、ひとりでに物が出来ることの為の手立てがそのようにして出来ていくんだと思うんです。
昨日は竹葉会でしたが、も本当に皆さんの素晴らしい信心を進めておられる模様をきか して貰うて、ま時間がございませんでしたから後十名余りの方達に一口ずつ、昨日の私の御理解じゃないけれども、「あなたにとって信心とは何か」と問われた時に、あなた方はどう答えるかという事を一口ずつ聞かせて貰いました。ね
佐賀の支部長であられます空閑さんがこういう事を言っておられます。信心とは「私に とって光です」と、こういう「うん、そうでしょうな」もし信心がなかったら、いつも真っ暗い中を手探りで歩いて行くような事であろうしね、腹を立ててはならんところに腹を立てたり、不平不足を言わんですむところを不平不足を言うたりした生活ではあったろうけれどもね、合楽を頂いてね、いよいよの時には合楽にお取次頂いてお願いする。「合楽は、まさしく私の光です」と、こう言う。
皆さんどうでしょうか、あなた方あなた達の、とって、信心とは何かと問われた時にど ういうふうに答えるでしょうか。私は、昨日皆さんにも聞いて頂いたように、私の為には信心は命以上のものだとね。私の命、私の体を心配して下さって、お医者さんがまたはその周囲の方達が色々と、ま、言って下さるからね。お医者にかかったらお医者の言う通りにする事が信心だと私は思うとりますからね、その通りにしてきた。
朝の御取次が終って、七時に朝食をなさるようにという事だから七時に、も退がらして もらう。七時、ちょっと前に退がる。成程、身体は大変楽です。ところが若先生が翌日参りましてから、浅野先生は朝の三時の起床とか四時の御祈念をお止めになられたらもっといいと、こう言うんです。そいで私は、改めてお医者さんの言う通りという事に思いを致しました事でしたけれども、それは私の命が、ならいうなら一日でも長生きしてもらいたい健康になってもらいたい、医学の上からはそうだろうけれども、んなら私にとって朝の三時の起床とか四時の御祈念というのは、もう私の命でありいや命以上のものなんだ。皆さんは、私の命のことを思って下さってです。だから、いうならば、ま、お医者さんの言う通りの事を実行してきたけれども、私の命命以上というものがそれをお止めになったらという事になる。結局、命以上のものだからと気付かせて頂いた時に、昨日からまた今まで通りの御用さして頂いておる。
これは、まあ本当に、私は昨日も丁度七時に退るのを八時四十五分までいつも坐るので すから、昨日も八時四十五分までお取次させて頂いたんです。その合間合間にね、もう何と言うでしょうかね、込みあげてくる喜びというでしょうか、ハハア、私が御結界に今まで通り御用さして頂くという事がこんなにも有難い、いやこれは私が有難いのじゃない、これは神様が喜んでござる。そんな感じで、昨日は一日御用さして頂きました。
これは私が信心、私にとって信心とは命以上のものだから命を心配して下さる先生方で 大体聞けるところまで聞いてみたけどね。私の命と思われる朝の御祈念を、例えば取り止めるという事は出来ない。
それは命以上のものだから、例えば命が一年、二年、なら早く縮まるような事があって も、それはさらさらいとわない。命以上の信心を大切にすべきだ、と。ところが、昨日は不思議に二回位生大根を食べるんです。胸がつかえて、こ、吐き気がするんですよね。だから、御結界では、も、それを頂くんです。ところが、昨日は一日大根を頂ただかんですみました。もう一つおかげ頂いた事は、左足のヒザが大変こ、「あいた!」ち時々痛むんです。それは膝に水が溜りよるんじゃないですかという人がありましたが、おかげで昨日は忘れたように昨日から痛みません。
本当に打てば響くとはこの事だろうかと、ね。結局、それは信心を命とし、命以上にし ておるからそれが出来るのです。
それで皆さんにも、あなたにとって信心とは、ね。空閑さんは「信心とは、私にとって 光りだ」なら、「今日のあなたのその信心はあなたにとって光という事は、まさしくそうだろうけれども、時々小さくなってしまうもんの」と、私はここで申しました。いや、それはまさしくその通りです。もう大安心で心が大きく光にするなど、も、潤う時もあるかと思うと、たまにはもうそれこそ、も消えはせんだろうかと思うように淋しかったりする時がある。
だから、合楽がある限り、まあ言うならば私が居る間は、ね、それが光るだろうけれど も、もしその光が自分のものでない、ただ合楽があるからということであったらそれは本当のものじゃないですばい、と、ま、言う訳ですが。
今日の御理解を頂いてですね、とかく信心は地を肥やせと、兎に角自分の心の中にいつ も天地と交流を求め、いつも心の中に光があるという光でなからなければ、いわばその光がね、光り輝くような時もあるかと思うと、もう消えやせんかというような心細い時もある。
本当いうたらそれこそ息子の結婚に、ま、本当にこれは考えてみるとお父さん、もあか げですばいともう親が心配してどうかする事はいらん、もう自分達がというてちゃんともう結婚費用やらから、その工面して、ね、結婚式場まで決めてきとるというのじゃけんで、これは、も、早く賛成してやらなきゃでけんです。私どんが賛成すりゃ親戚の者も皆んな賛成するに違いない。これはかえって御礼申し上げなきゃならん事ですばい、というふうに、こ、頂けれる信心です、ね。
そこには、必ずいうならばお取次を頂いての事でありますしね、安心のおかげが頂け、 またその後の事も安心のおかげが頂けれる事。心配はいらん、いうならば日々お取次を頂いて事だから心配はするな、それがおかげぞと、ま言える訳です、ね。それが、光というのじゃないでしょうか。それが地が肥えていっておる、いうならばね、その例えば、普通で言うならば、それは難儀な事であったり困った事である。息子が言う事を聞かんと言う事でもあるかもしれんけれども、それを肥やしにしていく、心を肥やしていく元にしていくね。
心は信心の定規じゃによってとも言われます。だから、自分の信心の程度というものを ですね、成り行きそのものを尊ぶとか有難いとかいう、どの程度に尊ばれておるか頂かれておるかと言うところに自分の信心の定規をおいてみると、はあ自分の信心はこの位だという事が分かるね。そういうね、おかげの上にたっての一切神愛論でなからなければ、一切神愛論という事が頭で理屈で分かっただけでは役にたたん。本当に、それが自分の光にもなって初めてね、一切神愛論という事が言える。おかげを受けただけでは一切神愛論はわからんね。力を受けて初めてね、一切神愛論という事が言える。
例えば病気一つでもね、あのお医者さんのおかげで助かった、あの薬が効いた。おかげ を頂いたわけです。神様にお願いして病気前回のおかげを頂いた。そんなら、神様にお願いしても医者にかかってもおかげ頂いただけなら、それまでの事ですね。それによって力を頂くというところにですね、神様の御神愛以外になかったという事がね、考えられるでしょ。
神様のおかげで通れんところを通ったとか病気が治ったというだけなら、あの人に頼ん で道が開けたとかね、あの薬が効いて良くなったというだけなら力にはならんね。その事を通してそれが根肥やしになったね、その事を通して力が出来たというおかげを頂いて、初めて成程どんな場合であっても神愛以外にないという事が分かるようにね。おかげを受けた、では分からんね。徳を受ける。
自分の心が豊かに、いよいよ大きゅうなって育っていっておるという事が、その事を通 して心が豊かに大きくなったんですから、その事がいうならば根肥やしにもなればお徳を受ける手立て、元にもなったんだ、とね。成程、神愛以外にないという事が分かってくるんですね。
昨日のその婦人じゃないけども、ここへ来るまではね、出来るならば子供達の結婚はも 解消してしまいたい。言う事を聞かんというてま夫婦の者が悩んでおったのが、ここへおかげを頂いてこれで安心した、という事になるね。だからその事をね、自分の心の中に光りを頂いておると、もうその時点時点でそれをおかげ、これを肥料にというふうに頂く事が出来るんですね。
私は、今日は一人でに物が出来るという事はね、御神徳を受けるという事だと、兎に角 信心は地を肥やせという事はね、兎に角信心は自分の心を肥やす事だ。その心を肥やす元になる物を、私共は不平不足、または腹立ちでそれを押し返しておるような事ではないかという事でございます。                                                                どうぞ